昭和五十四年一月四日 朝の御理解
御理解 第八節 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。 無信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」 信心しておかげを受けてくれよと。私は今日御祈念中に、〈これがわかくでしょうか〉米という字の下にてんてんがないのですね。
それから今日のこの御理解でした。信心しておかげを受けてくれよというのは、やはり信心に氏子がならないとおかげが頂かれんのです。なら、信心というのは、只、拝むという事だけでなくて、拝む、拝まれるという事なんです。その拝み合いの中から生まれてくるのが本当のおかげなんです。
拝みあげただけじゃいかんね、いわゆる、拝み拝まれるという。昨日私はこれを頂いて、昨日の御理解を改めて思うてみたんです。
米という字は八十八回手が入っているというのです、そういう手を抜く事なしにいわば、お米がきれいに沢山出来た。それを、なら、信心の熱をかけるとままになる。 願いが成就するというふうに、まあいうわけですけれど、これがね、半分。
米という字は、こう書いてあるでしょうが上に。だからこれは八の字を上の方へ反対に広がって上の方に広がって下の方へこう広がって行く〈というなかじゃ〉八の字にはなりません。八の字が、例えば、今日は御理解が八節ですよね。
八という字はここでは末広がりとこういう〈伝わり〉広がって行く。下へ広がっていかねばならんのに、上の方へ広がっていくという事はこれはね、おかげは受けられんという事じゃろう。これをやっぱり中途半端ではいけない。やはり米という字にならなければいけない。そういうのが神様の願っておられる、氏子信心しておかげを受けてくれよというのはこういう事だと〈こう思う〉。
それをこういう信心してくれよ、ああいう信心の手立てもあるよというて教えて下さるのが私は御教えだと思うのです。お互いがこのところで中途半端の信心をしては本当のおかげにはならない。ね、ここで、神様がおっしゃるのは、信心しておかげを受けてくれよというのは、結局、助かってくれよという事をね、どんな場合であってもおかげといえれるような心の状態。人間が助かるという事は、そういう心の状態。 自分の都合の良い時だはを、助かったというのではなくて、どんな場合であってもおかげとして頂けれる心が開けてくる。その為に信心しなければならない。いわゆる信心の道理をわからせてもらわねばならない。それにはね、ここにありますように、神は無信心者程かわいいと。子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親心じゃとこうおっしゃる。だから親心がわかり、神の心がわかるというところからね、一切の事にお礼が言えれる事になってくるのです。ね、
親は、子が嫌いという親があるはずはありません。親は子供、只かわいい、かわいいの一念です。助かってくれよというのが親の願いであると同時に神様の願いでもある。親の心と神の心とをここに同時に言ってあります。
子供の中にくずの子があればそれがかわいいのが親心じゃ、神は無信心者程かわいい。信心がなくて信心の道理もわからず、わがまま勝手な生き方をしておるそういう人間をかわいいと思召す。そういう親心がわかった時に私は、はじめて例えば、叩かれても憎うて叩く親はありませんから、その叩かれる手に縋ってお礼が言える事になるのですから、どうしても親の心がわからにゃいけん。神様の心がわからにゃいけんという事になります。
そうするとやはり、信心したけれどもおかげを頂ききらじゃったといったような事をいうようになって、いうなら、米という字が中途半端で終わってしまう事になるのです。中途半端にならんように頑張るとこう言いますけれども、神様の心がわかってのでなからんと、本当の頑張りにはなりません。
只、苦しいだけ、それこそ叩かれても有難いという心が生まれてまいりません。
只、頑張るだけでは信心がきついものになってくる。四神様の二代金光様の御教えの中に「泣いて願う者はあるけれども、泣いてお礼という氏子は少ない」という意味のお言葉があります。どうぞ助けて下さいと泣いて願う。神様がどんなに苦しい時でも神様がこのようにして私を鍛えて下さる、神様がこのようにして、私を育てて下さると思うから、苦しいけれどもやはり泣いてお礼を申し上げるという事になってくる そこにはね、しるしさがなくなってくる。ね、しるしさがあるから信心が中途半端になるのです。だから中途半端にならんですむおかげを頂く為に、親の心がわかり、神様の心をわからせてもろうて、御理解八節というのはいうならば、広がりに広がって行くというか、いよいよもうおかげが頂ける、もうおかげを頂くというぱっかりに広がっていくふうに今日私は感じました。
米という字を半分の事を頂いて、今日この御理解八節を頂いておりますから。それを中途半端のところにしてしもうては、おかげもやはり中途半端な事になってくる。 どうでも米という字にならなきゃいけない。それは、なら、一口にいうと、どういう事かというと、拝むという事は拝み返されるという事。ね、そこにいうなら、合楽しあえる世界がある。やっぱりそこんところを自分が願いとし思いにしなければいけん。
昨日、秋永よしろうさんがお参りして見えて、御本部から色紙を買って来て〈見えた〉。これになにか書いて下さいと。何んち書こうというたらこの頃から御理解に頂いた「拝む」「拝み合いは生活の源泉」というような御教えを頂いた。あれを書いて下さいとこういう。なら、そげん書こうというてから書かせて頂いたんですけれどもね。結局拝むという事は拝まれる事。いわゆる拝み合いになる事。それが生活の源泉になる。ね、だから向こうから拝まれるまでは拝まにゃいけんという〈のである〉。 神様を拝んどるけど神様からも拝まれるまでの信心になっていかにゃそこに、いうなら、おかげの源泉、生活の源泉はそこにあるんだと。だからそこに極まったとして拝み返されるまでの信心の工夫をこの御理解は説いてあると思うですね。
どうぞ。